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御坂峠 天下茶屋

富嶽百景

昭和14年太宰 治30歳の時の作品。

太宰 治は昭和13年9月13日から同年11月15日までの約2ヶ月間、御坂峠の天下茶屋に滞在しました。そこで初の長編小説である「火の鳥」の執筆を行いましたが、残念ながら未完に終りました。

しかし太宰は、滞在中の体験をもとに、この「富嶽百景」を執筆し、それまでと作風をがらりと変えます。以後、「走れメロス」(昭和15年作品)を代表とする中期の明るく健康的な作風を確立するのです。

 

太宰 治、東京都三鷹市「太宰治展−心の王者−」カタログ表紙から

<----------------- 富士には月見草がよく似合う。--------「富嶽百景」-->

「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声である朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。山頂が、まっしろに、光りかがやいていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。
「いいね。」
とほめてやると、娘さんは得意そうに、
「すばらしいでしょう?」といい言葉使って、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としゃがんで言った。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教えていたので、娘さんは、内心しょげていたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もっともらしい顔をして、私は、そう教えなおした。
私は、どてら着て山を歩きまわって、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとって来て、それを茶店の背戸に播いてやって、
「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。
ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。御坂峠のその茶店は、言わば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分程ゆられて峠の麓、河口湖畔の、河口村という文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらいの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気の良い日を選んで行く。ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をしてくれない。それでもときどき、思い出したように、甚だ散文的な口調で、あれが三ッ峠、向うが河口湖、わかさぎという魚がいます、など、物憂そうな、呟きに似た説明をして聞せることもある。
河口局から郵便物を受取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆって、口もとを大事にハンケチでおおいかくし、絹物まとった芸者風の女など、からだをねじ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶(ゆうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一瞥(いちべつ)も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやった。
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草」
そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あいたいじ)し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。

-------------------------------------------------------------以上「富嶽百景」より---

 

天下茶屋

太宰治記念館 天下茶屋

車で:
中央道 河口湖ICを降り、国道137を甲府方面へ。三つ峠入り口バス停を過ぎ、御坂有料トンネルから15分(御坂峠の頂近く)の所。

バスで:
河口湖から甲府行きのバスに乗車。新御坂トンネルの手前の、「三ツ峠入口」バス停で下車。そこから旧道を6キロほど登ると御坂峠に着きます。旧御坂トンネルの南入口の手前に天下茶屋があります。
(ついでに、「富嶽百景」にも出てくる、三ツ峠に登ってもいいでしょう。茶屋から1キロほど下った、三ツ峠登山口 から三ツ峠に登れます。登山口から2.5キロ、約1時間の道のりです。)
帰りは、御坂峠からトンネルを越え甲府側へ降りてもいいでしょう。6.3キロほどの距離。新道のバス停から甲府行きのバスに乗れます。

住所:山梨県南都留郡河口湖御坂峠  TEL(0555)76-6659

 

御坂峠から見た富士山と河口湖

建物は降雪により、一度崩壊し、再建されました。新道が出来てバスが通らなくなってしまいました。そのため、訪れる人が少なくなり、日曜しか開いていませんでしたが、最近は車で来る人も増え、平日でも開いているようです。

現在の建物は、太宰 治が滞在した天下茶屋から3代目にあたり、昭和58年4月1日に開店しました。お土産と軽い食事を扱っており、2階に太宰 治の記念館が有ります。食事をするか、お土産を買えば見学できます。富士山と河口湖を一望できる6畳間には、当時使用した机、火鉢などが有り、太宰の在りし日を偲ぶ事が出来ます。

初代の天下茶屋が建築されたのは、昭和9年秋のこと。木造二階建てで、8畳間が3間あったという。当時は富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていました。天下茶屋と呼ばれるようになったのは、徳富 蘇峰が新聞に紹介した記事がきっかけといわれています。

太宰 治が、初めて天下茶屋を訪れたのは昭和13年9月13日。11月15日までの3ヶ月余りを2階の一室で過ごしました。この時の体験をもとに「富岳百景」を書きました。

『富士には月見草がよく似合ふ。』

茶屋の向いの山道を登るとすぐ、天下茶屋の南西の高台に碑が建っています。昭和28年10月に建てられた太宰最初の碑です。太宰の生涯の師である井伏 鱒二の追悼文と共に、『富士には月見草がよく似合ふ。』の碑文が刻まれています。

太宰碑、『富士には月見草がよく似合ふ。』

 

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三ツ峠

碑の背面には太宰の師である井伏鱒二が「惜しむべき作家太宰治」と題した言葉を寄せています。

「富嶽百景」によれば、当時天下茶屋に逗留していた井伏が挫折した太宰を呼び寄せています。太宰は、今までの生活に訣別し<思ひをあらたにする覚悟>で登って来たのでした。井伏の帰った後も茶屋に滞在し、「火の鳥」執筆に励んだのでした。その間、井伏の紹介で甲府市の石原美智子と見合をし婚約しました。
「火の鳥」は未完に終わりましたが、太宰は甲府市内の婚約者のもとに下山するのです。
これを機に、太宰は明かるく健康な作品の多い中期の世界に入って行きます。

太宰と井伏は三ツ峠に登山し、その時の様子を「富嶽百景」にユーモラスに描いています。

<井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放庇なされた。>

茶屋から1キロほど下った、三ツ峠登山口 から三ツ峠に登れます。三ツ峠登山口から約2.5キロ、約1時間の行程です。

 

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井伏氏は、仕事をしておられた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当っていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。
私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて、ある晴れた午後、私たちは三ッ峠へのぼった。三ッ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。急坂を這うようにしてよじ登り、一時間ほどにして三ッ峠頂上に達する。蔦かずら掻きわけて、細い山路、這うようにしてよじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった。井伏氏は、ちゃんと登山服着ておられて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛臑は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟いて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放庇なされた。いかにも、つまらなそうであった。パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立っている。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営しているじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を飲んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんとうに生憎の霧で、もう少し経ったら霧もはれると思いますが、富士は、ほんのすぐそこに、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に注釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった。

-------------------------------------------------------------以上「富嶽百景」より---

 

太宰碑文、『富士には月見草がよく似合ふ。』

富士には月見草がよく似合う???

<富士には月見草がよく似合ふ>

太宰治の『富嶽百景』の一節ですが、あまりに有名になりすぎたせいで、富士山周辺は至る所に月見草が咲き乱れている、と誤解をしている方が多いようです。

まず、月見草の花びらは何色かご存じでしょうか。広辞苑に次のように出ています。
「つきみそう[月見草](1)アカバナ科の二年草。北アメリカ原産。初夏、大形四弁の
花を開き、しぼめば紅色になる。日暮から開花し、翌日の日中にしぼむ。(2)オオマツヨイグサの誤称」

そして「富嶽百景」には、はっきりと<黄金色の月見草>となっています。
つまり、そこに書かれた月見草とはマツヨイグサのことなのです。

太宰は本物の月見草を見ていないのです。

しかも、御坂峠あたりに実際に行ってみると、自生しているマツヨイグサは、ほとんど見当たらないのです。
太宰は本当に、御坂峠で、月見草ごしに富士を眺めて「よく似合う」と言ったのでしょうか?。

富士山と「月見草」

 

富士山と月見草、月見草と待宵草、待宵草と宵待草の関係。

月見草、宵待草。ロマンチックな名前に、人は心引かれてしまうのでしょうか。多くの誤解があるようです。でも、

誤解されたままのほうが、よく似合う。

 


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更新日:'99.08.31 M.Tanaka


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